二連木(にれんぎ)城

2017年11月1日撮影


◆別名:

 

◆所在:

豊橋市仁連木町136

 

◆交通:

 

◆歴史:

寛政正6年(1465年)井ノ口城において深溝城の大場次郎左衛門、丸山中務らが古川公方の命と称して主要街道を封鎖した上、京都への租税物を奪い取るなど、後世に言うところの額田郡一揆を起こした。

これに対し、三河守護の細川成之は岩津城の松平信光と娘婿の戸田宗光に鎮圧を命じ、宗光は知行地の一つであった大平城近辺にて丸山中務を討ち取るなどの功を挙げ、戸田氏は東三河で勢力を持つ事に成功する。その後、宗光は大津城に入り、郡代の一色正照の養子となって郡の統治権を得ると、文明12年(1480年)に田原城を築城。

 

明応2年(1493年)一色城において主家の一色時家を討ち滅ぼした波多野全慶と、牧野古白の抗争が勃発。

その隙を付いて宗光は二連木城を築き、その後、田原城と二連木城を中心として、戸田家は渥美郡支配を目指していくが、灰野原の戦いで波多野全慶を滅ぼした牧野古白は、永正2年(1505年)に豊川を越えて今橋(吉田)城を築城し、戸田氏との対立姿勢を明確にする。

 

翌、永正3年(1506年)に牧野古白を戦場で討ち取るものの、牧野・戸田両氏の抗争は激化。その後、西三河の松平氏を含めた三つ巴の抗争へと発展していく。

一旦は駿河の今川義元が吉田城を中心とした東三河を治めるが、桶狭間の戦いで義元が討ち死にし、今川氏の支配力が低下すると、永禄7年(1564年)二連木城主となった戸田重貞は徳川家康へと従属し、翌年には吉田城も徳川家の軍門に降る事となった。

 

元亀2年(1571年)駿河を制圧した武田信玄は遠江を経て三河へと侵攻。足助城田峯城を攻略した後、野田城も陥落させ、吉田城へと迫り、その支城であった二連木城は武田軍の前に落城するも、吉田城は持ちこたえ、武田軍は甲斐へと撤退していった。

 

その後、家康の関東移封を受け、池田輝政が吉田城へ入場すると二連木城は廃城となったと言われている。

 

◆現在:

城跡の大半は大口公園となっており、土塁・空堀などが残されている他、南西にある全休院には戸田宗光ら戸田氏代々の墓が現存している。

大口公園の南側には古城稲荷があるが、二連木城との関連は明確ではない。