一色(いっしき)城

2017年11月1日撮影


◆別名

 

◆所在

豊川市牛久保町岸組

 

◆交通

 

◆歴史

永享11年(1439年)の室町幕府四代目将軍足利義持の時代、鎌倉公方の足利持氏が力を持ち、関東に独立勢力を築き始め、関東管領の上杉氏と敵対する。世に言う永享の乱である。
持氏の重臣であった一色直兼は上杉勢と戦うものの、主君の足利持氏が敗退すると、一色一族が守護を務める三河に逃亡を図った。

 

一色城は、直兼と一緒に三河に逃れた甥の一色持家が、豊川の段丘沿いに築いた城である。

文明9年(1477年)一色持家は、家臣の波多野全慶によって討ち取られ、城は全慶の物になる物の、明応2年(1493年)には全慶も家臣の牧野古白に討たれてしまう事となる。

 

牧野古白は永正2年(1505年)に吉田城を築いて本拠を移し、一色城には瀬木城から牧野成勝を移して城代としするが、成勝は近隣に牛久保城を築いて移転したため、一色城は廃城となったと伝わっている。

 

一色直兼の末弟に一色氏宗と言う人物がおり、この子孫が小牧長久手の戦いで活躍した岩崎城主の丹羽氏明の先祖にあたる人物である。

また、直兼から3代遡った一色範氏の子孫には、丹後国を支配した一色義幸や、坂部城主の久松氏(後に家康の母である於大の方が嫁ぎ、久松松平家として大名になる)、徳川家康のブレーンだったと言われる金地院崇伝の名前なども見る事がでる。

 

◆現在

松尾かじやの駐車場に土塁が残されているが、訪問時に会社の方がお見えになり、撮影の許可を頂く事ができた。

 

また、一色城と牛久保城の間に位置する大聖寺は、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の胴体を担いで逃げて来た今川家の家臣が、この地に胴を埋めたと言われており、今川義元の廟所が今でも残されている。