佐脇(さわき)城

2017年8月15日撮影


◆別名

 

◆所在

豊川市御津町下佐脇上

 

◆交通

 

◆歴史

城址碑脇に立てられた看板によると、鎌倉時代の地頭であった佐脇氏の城館から始まっており、室町時代には、三河守護の仁木氏の被官として佐脇氏の名前を見る事ができ、その後、佐脇氏は伊勢へと所領を移すとあるが、これは仁木氏が伊賀一国へと衰退した事によるものかもしれない。

 

1400年中頃になると、亀山城主の奥平貞久が勢力を拡大し、七男の定包を佐脇城主として、この地を領有したとされる。

 

永禄5年(1562年)松平元康は三河統一を目指して今川氏と抗争を繰り広げる中、元康軍によって、居城である中島城を攻め落とされた板倉重定は、牛窪城まで撤退し、東海道沿いにある八幡城と佐脇城を結んだ防衛線を築いたが、1千騎で攻め寄せた酒井忠次によって赤坂合戦で討ち取られる事となる。

 

佐脇城は松平と今川が争う最前線の城となり、奪い合いが行われていたが、永禄7年(1564年)松平元康の三河侵攻により、松平家の領有する城となり、佐脇刀祢太夫を城主としている。

刀祢太夫の詳細はよく判っていないが、天正3年(1575年)に起こった長篠の戦いで奥平氏に従って討死を遂げている事から、前述した佐脇氏の中で地元に残った氏族であったと思われる。

刀祢太夫が討死した後、佐脇城は廃城となるが、子孫は江戸幕府の旗本となり、大阪番衆などを務めたとされている。

 

◆現在

以前は工場の一角に城址碑があったと言われているが、工場は住宅地となり、古くからの城址碑は失われたと思われる。

 

現在は下佐脇ちびっこ公園の中に、平成21年に新たに立てられた城址碑と佐脇城の説明看板が残るのみとなっている。 


城址碑から500m程南西にある、佐脇城最後の城主であった佐脇刀祢太夫の墓

 

◆所在:

豊川市御津町佐脇市場

県道384号線沿い北側

 

2016年7月18日撮影