登屋ヶ根(とやがね)城


◆別名:

登谷ヶ根城 ・ 鳥屋根城 ・ トカ子城 ・ 関口城 ・ 番場城

 

◆所在:

豊川市長沢町番場

 

◆交通:

 

◆歴史:

赤石神社の由緒書によると、永仁年間(1293年~1298年)頃番場致由(※注1)が城を築いた際に、神社も勧進したと記載されている。

その後、室町時代に関口刑部によって城館として形作られたと言う説が一般的である。

 

関口氏は吉良氏から分かれた今川氏の一族で、今川基氏の弟が関口経国として関口氏を起こし、長沢村を本拠地とし、その西端にあたる登屋ヶ根にも城を築いて支配を固めていったが、戦国時代に入り、永禄3年(1560年)に桶狭間で今川義元が討ち取られると、翌年の永禄4年(1561年)には本多忠勝が14歳で登屋ヶ根城攻めに参戦し、初陣(※注2)を飾る。

 

この時、忠勝は叔父の忠真の部隊に所属しており、叔父が忠勝に手柄を立てさせようと兜首を用意したが、忠勝は「我、何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」と叫び、敵陣へ討ち入り自力で兜首を取ってきたと言われている。

 

※注1:

鎌倉幕府の命令で、讃岐の地より移り住んできた時に赤石神社を勧進した伝わる。

 

※注2:

大喜多町誌には大高城への兵糧入れの時、すでに初陣しており、鳥屋根城はで初首の手柄を上げたと記載されている。

 

◆現在:

東西の曲輪の間には大規模な堀切が残されており、当時の面影を残している物の、東側の曲輪は畑になっており、西側はHOTELが建設されている。 

 

城の北東に位置する慶忠院は関口氏の菩提寺であったが、廃寺となり立信寺に合併。本尊の関口観音は宝樹院に移される事となった。

慶忠院の建物は取り壊されたが、関口刑部の墓と伝わる五輪塔は現在も残されている。